その日は日曜日の午後で、悠介は母親に頼まれて母方の祖母が入院している病院に届け物をした帰りだった。
祖母の病状は良くなかった。顔色も悪かったし元気も無かったが、ショックだったのは、元々小柄だった体がさらに一回り縮こまったように小さくなり、顔も手も皺だらけにやせ細っていたからだった。
いつも悠介ちゃん、悠介ちゃんと優しい声で呼んでくれた祖母の姿はそこには無かった。
-もう長くは無いかも知れないな。もしかすると、おばあちゃんの顔を見るのは、今日が最後かもしれない…。
そう思うと目頭が熱くなり、視界がぼんやり霞みだした。
僕が子供の頃、祖母は本当に優しい人だった。僕は祖母に叱られたことが無かったと思う。僕が悪戯をして母に起こられた時には、まあいいじゃないの、といって庇ってくれたその祖母が…
そう考えた時に、スピ-ドを出した自転車が僕のすぐ横を走り抜けていくのを風で感じたその直後、歩道で何かをしていた女性がその自転車をぶつかりそうになったのが目に入った。
ぶつかる、っと思った瞬間、女性は独楽のように一回転して体勢を立て直そうとしていたが、勢いが付き過ぎていたのでよろめいたところに、なんと僕の両手が腰からお尻の辺りを受け止めてしまう格好になってしまった。
思わず「しまった」と思ったが、やはり心配した通りのことになってしまった。
「きゃ-ッ」
とその女性は叫ぶと同時に、悠介の左手首は彼女の左手でガシッと掴まれ、身動きが取れなくなってしまった。まるで合気道か何か武術をやっているかのような、素早く見事な動きに思えた。そう思った瞬間、もの凄い音がして左頬に衝撃を感じ、続いて頬に熱湯を浴びせられたような熱さと痛みが走った。
「なによ! 嫌らしい! あなた、私の下半身に触ったわね。痴漢罪で逮捕します!」
彼女のその声を聞いて、歩道を歩いていた誰もが振りかえって悠介を見ているようで顔が増々熱くなった。何か言おうとしたが、何故か声が出なかった。
-逮捕する? この人は婦人警官?
するとそこに、目の前の店から年上の女性が飛び出してきて、大声出してどうしたの、と若い方の女性に聞いてきた。
「お母さん、聞いてよ!この男が私の腰やお尻を触ったのよ。痴漢よ!」
ここに至って悠介は、このままではヤバいことになると思い、あらん限りの大声を出して反論しようとしたが、思いのほか声は小さく、しかも震えてしまった。
「違います!ぼ、僕はそんなことはしていません。彼女が自転車をよけようとして体のバランスを崩したので、思わず両手が出てしまったんです…。変な気持ちなんてありません!信じてください。すいませんでした。」
そう言って足早にそこを立ち去ろうとした。もしかすると、こそこそ逃げようとする痴漢に見えたかもしれないが構うこっちゃない。
-これじゃあまるで、僕が変なことをしたみたいじゃあないか。
納得はいかなかったが、こんなところにじっとしていたら、今度はどんな濡れ衣を着せられるか分かったもんじゃない。
まさか追ってくることは無いだろうが、悠介の足は途中からさらに早くなった。殆ど走っているようなものだ。
-それにしても気の強い女だったなぁ。
メトロの入り口まで来てホッと胸をなでおろしゆっくりと階段を下りながら、あの女の鬼のような形相を思い浮かべて、思わず首をすくめてしまった。
-今度祖母の見舞いに行く時は、あの店の前は通らないほうが良いな。
いくら冤罪とはいえ、あの『女性警官』とは二度と顔を合わせたくなかったからだ。
階段を下りて通路を歩いていると、何故か行きかう人々が振り返り何かささやき合っている。ニヤニヤ笑う人さえ見かける。怪訝に思いスマホで自撮りモードにして自分の顔を見て驚いた。
頬にくっきりと赤く浮かび上がる手の跡が見えたのだ。
悠介はその場を暫く動けなかった。当然ながら恥ずかしさもあったが、それ以上にその『手形』の余りの「鮮やかさ」に思わず見とれてしまったからでもあった。
-これは写真を撮っておいてインスタにアップしようかな。
と一瞬考えたが、慌ててその考えを打ち消した。
そんなことをすれば友人たちに今回の一部始終を話すことになり、下手をすると変な尾ひれがついて笑いものになりかねない。
いや、それで済むならマシだろう。
滝本に話しでもしたら尾ひれどころかホラが混じって、下手すれば人格を否定されかねないことになるぞ。
例えば、例えばの話、電車内で痴漢に間違われて、被害者の女性から平手打ちを食ったとか…。
そんなことを考えていたら思わず身震いしてしまった。本当にそんなことになったら大変だな。
《つづく》
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