欠伸を噛み殺しながら、あ-眠い、と呟いた。
昨日は学部の仲間と居酒屋で飲んだ後、終電近くまで麻雀してしまったのだ。
今朝の1時限目は体育で選択したテニスの授業だが、今回は雨が降っているので本部キャンパスの教室での講義である。先程から名前が呼ばれ出欠席がとられているところだ。
高校時代に一応テニス部に入っていたので、テニスはまあできる。つまりこの授業は遊びみたいなもんである、という訳ではないが、昨日は少し騒ぎ過ぎてしまったようで、喉はガラガラだし体も疲れているようだ。
また欠伸が出そうになるのを必死で堪える。
点呼が終わり、では始めましょうか、と教授が言ったその時、廊下でバタバタと音がしたと思ったら、教室の扉が開いて2人の学生がなだれ込んできた。きっと電車かバスが遅れたんだろう。
彼らが前の方の空いている席に着くと、教授は名前を尋ねる。
「よしだけんじです」
「ささきりほです」
-ささきりほ…。エッ!
思わず声が出てしまった。直ぐに右手で口を押えて、「ささきりほです」と声がした方に目を向けると、肩まで黒髪をナチュラルに垂らした華奢な女子学生の横顔が見えた。
-あの顔は、間違いない。彼女だ…。
こんなとこで再会するなんて、何という運命の悪戯だ。
もう二度と会う事なんてないと思っていたのに…。
悠介は、再度横を向いて彼女の横顔を盗み見ていた。
綺麗だ、と改めて思った。彼女の横顔は、あの中3の時そのままであった。その途端、あの時の抑えようのない、でも一途な思いが蘇ってきた。
彼女は悠介が中学3年生の時の隣のクラスの女子で、笑顔が綺麗(笑顔でなくても綺麗だが)で成績も良いクラス委員長であった。そして彼にとっては、何よりも密かに恋焦がれていた憧れの人でもあったのだ。
ただ当時の悠介には、彼女を自分に振り向かせられるようなものを何も持っていなかった。彼女の成績は学年でトップクラス、クラス委員長で男女に人気があるのに対して、彼は成績は中の上、そのほかには…何も取り柄が無かったのだ。
高校に入学しても彼女への思いは募り、ついには高1の夏休みにラブレタ‐を送ってしまった人なのだ!! つまり在学中には直接話しかける勇気が無くて言葉もかわしたことが無かった《高嶺の花》である彼女に、卒業後に我慢できなくなって手紙を送ったという事なのだが。
-あのラブレターは失敗だったなあ。
そう、夏休みの最後の3日間と言うもの、それに掛かりっきりになってしまったにも拘らず、何度書いても気に入る文句文章が書けなかったのだ。
第一、ラブレタ‐は元より手紙すらも書いたことが無い高校生に、好きです、以外に何か気の利いた文章なんか書けるはずは無かった。
しかし、不思議なことに夜中には気も高ぶるのだろうか、書く文章は驚くほど情熱的な文句が並び書く手も滑らかになるのだが、翌朝に内容を読み返すと赤面してしまうほど恥ずかしかったのを覚えている。
-凄い手紙になっちゃったな-。
こんな過激なラブレタ‐は、高1の自分には絶対に出せないものだったので、ビリビリに破り捨てるしかなかった。だからと言って昼間に書こうと思っても全く文章が頭に浮かばず、結局また夜中に書くしかなかったのだった。
何度も何度も書き直していると、ついさっき書いた内容さえ思い出せなくなってしまう、という事も分かった。
こうなるともう内容なんかどうでもよくなってきた。何度書き直しても内容なんか良くならないだろう。だったら、書き直すことでモヤモヤするより、出してしまったほうが良い。兎に角「出すこと」が大事なのだ、と自分を無理やり納得させて、悠介は手紙を投函した。
数日後、思いもかけないことが起こった。
2歳年上の姉に声をかけられた。何か楽しそうに笑っているが、何か変だ。
姉は手に持ったものをひらひらと左右に振りながら、
「うふふ、佐々木さんて好きな女の子? でも残念でした。」
と言って封筒を差し出した。
一瞬、彼女から返事が来たのかと思ったが、宛名は「佐々木里穂様」となっている。
「どうしてこれが?」
と言った途端に全ての謎が解けた。
信じられないことに、切手を貼り忘れたのだ!!
あの時の自分はかなり慌てていたに違いない。投函することばかり考えていたので、投函する前にすべきことを完全に忘れていたのだ、信じられないことに。
-本当に恋って盲目になっちゃうんだなぁ~。
一時は、これは出すな、という神様のお告げだから出さないほうが良いかも、と考えたが、やはり投函することにした。結果、つまり返事の内容なんかどうでもいい、大事なのは自分の気持ちを彼女に伝えることだ、そうしないことには先に進めない。そして何しろ、落ち着かなくて何も手に付かないのだから。
2週間くらい経ってからだったろうか、返事が来たのは。殆ど諦めていたので、正直忘れていたほどだった。
ドキドキしながら封筒から手紙を出して読む。すこしピンク色の便箋だった、女の子が好みそうな色だったと思う。
「お手紙有難う。凄くビックリしたけど嬉しかったです。」
と言うような書き出しで、相手の気持ちを十分配慮した丁重な断りの内容だった。
それは当然予想されたことなので別段気落ちなどはしなかった。むしろ返事を書いてくれたことに凄く感謝感激してしまった。
-さすが俺が好きになっただけのことはあるな。
と一人悦に入ってしまったほどだ。
返事を出さないという選択肢もあったのに、むしろそれが普通だと思うが、彼女は出すことを選んでくれた、そのことがとても嬉しかったことを改めて思い出した。
-やっぱり彼女は特別な人だ。
そう思うと、その人がすぐ近くに居ることを思い出して、心臓の鼓動が高まった。
但し、近くに居ると言っても、決して彼女との距離が縮まったわけではないのだ、というのは分かり切ったことだ。
-やっぱりこれは単なる運命の悪戯だな。
喜んだだけ損したな、と苦笑いするしかなかった。
〈つづく〉
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